井上頼圀
井上頼圀(いのうえよりくに) こちらも新宗教研究をしていたらぶつかった研究者でしたので、ネットで調べたものを記載します。 それにしても明治から昭和初期までにかけての研究者というのは業績が半端無い人が多いです。 〔生没年〕 天保10年(1839)2月18日~大正3年(1914)7月4日 〔享年〕76 〔生国・住国〕 江戸 : 東京都 〔学統〕 相川景見・平田篤胤(没後門)・権田直助 国学者。江戸神田松下町の医者井上頼正の子として生まれる。慶応3年12月、すでに京都の勤王志士と交流のあった権田直助の後を追って京に上り、国事に奔走。維新後は皇漢医道御用掛・権少教正・宮内省御用掛・御系譜課勤務・國學院講師、学習院教授、宮内省図書寮編集官などを歴任する。 明治38年、文学博士となる。 幼少より学問を好み、安政3年5月、相川景見に歌を学び、また儒学・医学など諸学・諸芸に通じた。文久元年11月8日、平田銕胤の門人となり、本来門外不出である『古史伝』の拝借を許されるほど信頼を受ける。また元治元年には、同門の権田直助に皇朝医学を学んだ。明治15年、松野勇雄ら同志を糾合して、皇典講究所を設立。その講師となって教育・運営に尽力した。 学者としては国史諸本の校訂、神社史考証を行なうほか、子弟らとともに貴重本の書写を行ない、その保管に努めた。その蔵書は現在、無窮会専門図書館神習文庫として遺存している。浩瀚な著述はないが、一度校訂されたものは学会の権威となった。また、平田篤胤の主著『古史伝』の未定稿部分を、平田銕胤・矢野玄道と協力して完成させるととともに、篤胤・直助ら先師の業績を刊行するなど、その顕彰に努めた。 天保10(1839)江戸神田松下町の医者井上頼正の子として生まれる。 安政3(1856)相川景見に歌学を学ぶ。 文久元(1861)平田銕胤の門人となる。 文久元(1861)【成立】易学こころおぼえ《えきがくこころおぼえ》 文久3(1863)【成立】新学異見序文斥兆《にいまなびいけんじょぶんせきちょう》 元治元(1864)権田直助に皇朝医学を学ぶ。 慶応元(1865)【成立】抄書《しょうしょ》 慶応3(1867)上京し、国事に奔走。 明治2(1869)7月、大学中助教、10月、皇漢医道御用掛。 明治5(1872)7月、教部省十二等出仕、8月、教部権中録、11月、教部省判任官。 明