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天理教学?

 天理教は教団として教義学の確立に頑張っているみたいです。  いろんな雑誌があり、論文の質はともかくなにかと雑誌があります。  なんのためにここまでやるんだろ??と素朴に思いながら、読んだりしてます。  論集に限らず機関誌もやたらと多く、書いている人は大学教員から一教会長まで様々…  

最近の新宗教研究

 最近の新宗教研究はどんなもんだろうか思い調べて見ると案外されていない。一時期のようなブームはさってしまったのだろうか。それとも新宗教研究しても就職も無いし、就職出来そうなテーマにしよう。みたいな感じなんでしょうか。  新宗教研究に限らず宗教学関連の研究ってあまりないような気がする。やっぱり理系のほうが職もあるし、研究するのに予算も取りやすかったりするんでしょうか…  日本だと欧米と比べて宗教研究はおざなりにされそうな気がするので、そのせいなのか。  私は高尚な思想も何もないので、興味があることにブレながら書いてますから、それはそれでいいんですけど。

宗教学的考察

 最近特に何もしていないので、書くこともありません。  勉強もしてないし、する気もおきませんね。  いかん。いかん。と思ってますけど、うまいこといきません。  宗教学的考察という単語が目の前をちらつきますが、そんな考察する気力がわかない…

日本宗教学会

日本宗教学会 第69回学術大会のポスターを見つけました。 世界の四大思想家が載ってます。 釈迦 ソクラテス 孔子 カント です。 だからどうってことはありませんけど、下にURLを書いておきます。 http://bunbun.toyo.ac.jp/intetsu/jars2010/poster_jars2010.pdf 釈迦を思想家とすることはどうなのか?って勝手に思いますけど、巷ではそのように言われているということでそれはそれでありなのかもしれませんね。 私にはよく分かりません。 この大会でも天理教に限らず新宗教研究に関する発表はあるみたいですので、そこらへんは興味がすごくありますね。

島薗進先生のブログ

島薗進・宗教学とその周辺 皆さんご存じでしょうけど、宗教研究の有名人。というか、宗教学会の会長してたり、東大の教授の島薗先生のブログにおもしろい記事があったので記載します。 島薗先生は宗教学のどのあたりを専門にしてるのか分からないんですけど、もしかしたら全部なのかもしれません。最近は死生学も盛んに研究されているみたいですし、どうなんでしょうか。ただこの先生はなんかすげー。としか言いようがないですね。 人によってはご批判もあるかもしれませんけど、目を通すだけの価値は十分になると思います。 以下抜粋です。 日本の世俗化と宗教概念 2010年6月1日 シンポジウム・国際ライシテ宣言とアジアの世俗化、2008年11月28日。(後、羽田正編『世俗化とライシテ』東京大学グローバルCOE「共生のための国際哲学教育研究センター」、2009年、刊に収録)。 Ⅰ.日本の世俗化をめぐる4つの考え方   日本の世俗化はいつ頃に決定的な転機があったのか。これについては、4つの考え方があり、それぞれに妥当性をもっている。 第1の考え方では、16世紀から17世紀にかけて、仏教やキリスト教勢力を抑圧して、将軍権力が確立した時期がもっとも重要な転機だとするものだ。割拠する戦国大名と一向一揆の勢力を抑えて全国統一を行った織田信長は、その過程で本願寺や比叡山延暦寺などの強大な宗教勢力を武装解除し、武将の政権に従属する地位へと貶めた。続いて豊臣秀吉や徳川将軍はキリシタンを抑圧し仏教を一面優遇するとともに、仏教教団への強力な統制体制を整えていった。その後、支配階級である武士は行政官僚へと転じ、その精神的バックボーンとして次第に儒学を学ぶようになる。仏教の影響力が後退し、儒学や神道が統治の精神的根拠となっていく過程は世俗化の進展といえないこともない。  第2の考え方では、1867年の明治維新に続いて西洋諸国を見習いながら国民国家を形成期しようとした時期にこそ、日本の世俗化の決定的な転機がある。当初、神道国教化を目指した維新政府だが、仏教勢力の抵抗やキリスト教の布教容認や信教自由制度の確立を求める西洋諸国の要求に従って、それなりに「信教の自由」や「政教分離」を国家体制に具体化していくことになる。しかし、天照大神の血統を引く天皇の神聖な地位を国家統合の中心にすえる体制は次第に整えられていった。すなわち、国家神道体

新宗教研究

 最近知り合いの方になんで今新宗教研究してんの??  みたいなことを聞かれました。私が感じる範囲では悪意はなさそうだったんですけど、真相は分かりません。  確かに宗教学してると言うとなんで??というようなコメントは出ます。  研究者どうしだとそうでもありませんけど、学生間でもたまに聞きます。  なぜ?と聞かれると答えないといけないんですけど、なかなかうまい返しができない。というのも本音です。  それではいかんと前々から思ってはいるんですけど、なかなか実践できないもんです。  興味があるから。とかじゃしょーもないしな。どうしたもんかな…

善福寺

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天理に行ったので、善福寺に行ってきました。 門は明治初年に内山永久寺から移建されたらしいです。 浄土宗知恩院末 文化14年(1817)天理教教祖が、五重相伝を受けたお寺です。 冷泉為恭という有名な画家のお墓もありました。

看板の掛け替え

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 ある人から下の写真を頂きました。  どのようなタイミングで変わるのかは知りませんけど、こういうのを画像に残す人もいてるもんかと関心しました。  写真は良い天気です。  

see haiku here

http://seehaikuhere.blogspot.com/ こちらのサイトの人は天理教の人なんだそうです。 友人から聞いたので、見てみました。英語のページですので、私は理解できませんが、絵がとても綺麗かと。 よく分かりませんが、教団がでかいといろいろと芸のある人がいるもんだと思いました…

ゴミ問題??

これは宗教研究とは関係は無いんですけど、偶然みつけたので書きます。 下記の記事はyahooニュースから持ってきました。 知らなかったんですけど、いろいろと調べると法人は普通にゴミを捨てれないんだそうです… 天理市が宗教法人天理教など5法人のごみ処理手数料を、事業系より安い家庭系として扱ったのは違法として、天理市民オンブズマンの梅光雅幸代表幹事が11日、市を相手取り、南佳策市長に08年度の差額約1070万円を支払わせるよう求めて奈良地裁に提訴した。  訴状などによると、市は96年、宗教法人天理教や天理大、天理よろづ相談所病院など5法人のごみを家庭系として扱うことを決定。08年度は計約1520トンを処理した。当時は家庭系が100キロまで無料で超過分は10キロ当たり40円、事業系は10キロまで無料で超過分は10キロ当たり100円だった。  市は「ごみ処理施設を建設した際、天理教から約7億円の寄付を受けたため」と説明。梅光代表幹事は、5法人が市条例に基づく減免措置の申請をしていないことから「市長の職権乱用だ」と主張している。天理市は今年4月から、天理大など3法人のごみを事業系として扱っている。 こういうことをまともに取り締まっていたら、本当に大変だろうな。というのが正直な感想です。

天理大学付属図書館

天理大学付属図書館に行ってきました。 この図書館は国宝級のものが沢山あるんだそうです。 自分がほしい文献は無かったんですけど、見に行くだけでも価値はあるかと思いました。 ちなみにこの図書館の設計は、天理教の偉い人の人脈で姉崎正治が関係しているんだそうです。 建物は古い感じで勉強するには良い環境のようです。 マニアックな研究をする人。または天理教関係の研究をする人には必須の図書館ですから、一度見学されるのもよいかもしれませんね。

新宗教研究における天理教(1)

 新宗教の中で天理教というのは老舗というか、それなりの地位があるみたいです。  一応日本で独自に発生した宗教としては一番古いですから。  同時期に発生した金光教や大本教などと比べられたりもしますが、一応独自の教義を持った教団です。  天理教は比較的早い時期から研究対象として扱われて来てますし、現在でも全国規模の学会でもとりあげられています。  天理教の興味を引く点としては教団内での研究の蓄積が膨大であることです。    仏教系の大学では当然のことなのかもしれませんが、新宗教系でここまで膨大な資料を有している教団は国内にはないとおもいます。  大学もありますし、天理教の専門学校みたいなところもありますので、そちらの先生が論文を書いたり、いろいろとしています。  そういうことを考えてると研究の対象としては良いかもしれませんが、あまりうまみのある研究とはいえないかもしれませんね。

井上頼圀

井上頼圀(いのうえよりくに) こちらも新宗教研究をしていたらぶつかった研究者でしたので、ネットで調べたものを記載します。 それにしても明治から昭和初期までにかけての研究者というのは業績が半端無い人が多いです。 〔生没年〕 天保10年(1839)2月18日~大正3年(1914)7月4日 〔享年〕76 〔生国・住国〕 江戸 : 東京都 〔学統〕 相川景見・平田篤胤(没後門)・権田直助  国学者。江戸神田松下町の医者井上頼正の子として生まれる。慶応3年12月、すでに京都の勤王志士と交流のあった権田直助の後を追って京に上り、国事に奔走。維新後は皇漢医道御用掛・権少教正・宮内省御用掛・御系譜課勤務・國學院講師、学習院教授、宮内省図書寮編集官などを歴任する。  明治38年、文学博士となる。  幼少より学問を好み、安政3年5月、相川景見に歌を学び、また儒学・医学など諸学・諸芸に通じた。文久元年11月8日、平田銕胤の門人となり、本来門外不出である『古史伝』の拝借を許されるほど信頼を受ける。また元治元年には、同門の権田直助に皇朝医学を学んだ。明治15年、松野勇雄ら同志を糾合して、皇典講究所を設立。その講師となって教育・運営に尽力した。  学者としては国史諸本の校訂、神社史考証を行なうほか、子弟らとともに貴重本の書写を行ない、その保管に努めた。その蔵書は現在、無窮会専門図書館神習文庫として遺存している。浩瀚な著述はないが、一度校訂されたものは学会の権威となった。また、平田篤胤の主著『古史伝』の未定稿部分を、平田銕胤・矢野玄道と協力して完成させるととともに、篤胤・直助ら先師の業績を刊行するなど、その顕彰に努めた。 天保10(1839)江戸神田松下町の医者井上頼正の子として生まれる。 安政3(1856)相川景見に歌学を学ぶ。 文久元(1861)平田銕胤の門人となる。 文久元(1861)【成立】易学こころおぼえ《えきがくこころおぼえ》 文久3(1863)【成立】新学異見序文斥兆《にいまなびいけんじょぶんせきちょう》 元治元(1864)権田直助に皇朝医学を学ぶ。 慶応元(1865)【成立】抄書《しょうしょ》 慶応3(1867)上京し、国事に奔走。 明治2(1869)7月、大学中助教、10月、皇漢医道御用掛。 明治5(1872)7月、教部省十二等出仕、8月、教部権中録、11月、教部省判任官。 明

中西牛郎

新宗教研究をしていると中西牛郎(うしお)なる人物にぶつかったので、ネットから引っ張ってきたのを書きます。 1859‐1930 明治-昭和時代前期の著名な宗教思想家 安政6年1月18日生まれ。 同志社にまなび,明治14年神水(くわみず)義塾をひらく。 米国に留学後,本願寺文学寮教頭となる。「新仏教論」で仏教改革を説き、雑誌「経世博義」を刊行し国粋主義を主張。 天理教と神道扶桑教の教典をまとめた。 昭和5年10月18日死去。72歳。肥後(熊本県)出身。号は蘇山。 著作はほかに「宗教革命論」など。 というのがありました。 文献などは探していませんが、それなりに有名な研究者だったようです。 この時代は学者という表現の方があってるのかもしれませんね。

天理大学

 新宗教の中でも天理教に関する研究をしようと思うと避けて通れないのが、天理大学。  天理大学にはおやさと研究所なるものが存在し、研究活動をしているみたいです。  実際は建物も一緒で、メンバーも兼任という感じですが、地道に書籍の販売や研究会を行い、日本国内、世界の研究者を呼んで研究会をしています。(先月は東京大学の島薗先生が研究会にいたらしい)  特におやさと研究所が出版している「天理教事典」はなかなかの量と内容だと思い、これを書きました。  事典と名前がつくぐらいですから、それなりのもんだということはすぐに分かりますけど、天理教以外の周辺の出来事を民俗学や生物学などなどからきちんと記載している印象を受けています。(熟読はしてはいないですけど…)  どの宗教系大学でもしてることかもしれませんし、宗教系大学は研究所、もしくはそれと同じような研究機関を持っています。新宗教は少ないですが、キリスト教系、仏教系などなど数えたら一日じゃ終わらないぐらいの量かと。  天理大学は最近学部編成で体育学部の人員を増やし、宗教学科など人が集まりにくい学科は減らしたそうです。世間的に見れば、奈良県の田舎にある大学。または宗教系大学と見られているでしょうから、人は集まりそうにはないですね。  

天理教教祖誕生祭

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関西に行く用事があったので、天理市に行ってきました。 何も知らずに行くと黒山の人だかり?? おびただしい数の人がいました。 教祖誕生祭と婦人会100周年という行事があって、電車も満員、道路も渋滞… そんな感じです。 黒い法被と呼ばれるものを着ている人が多かったです。 出店も出てて、お祭りみたいな感じもありましたね。 老舗新宗教なんて記事を読んだこともありますけど、基本的には拝観料も無いみたいですし、自由に参拝するところにも入れました。

石上神宮

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今回は新宗教でありませんが、新宗教とゆかりが若干あるということで… 石上神宮に行ってきました。『日本書紀』に記された神宮は、伊勢神宮と石上神宮だけであり、日本最古設立の神宮と言える。 ようはすごい歴史のある神宮ということになります。 桜のきれいな時期だったので、花見もしてきました。近くに山辺の道もあるので、参拝者、旅行者などなど多くの人がいました。 祭神 布都御魂(ふつのみたま)神 布留御魂(ふるみたま)神 布都斯御魂(ふつしみたま)神配祀 宇摩志麻治(うましまじ)命 五十瓊敷(いにしき)命 白河天皇 市川臣 主祭神の布都御魂神は、また佐土(さじ)布都神ともいい、神代に武甕雷神がおびていた霊剣で、平国之剣(くにむけのたち)ともいわれる。「記紀」によれば、神武天皇御東征の時に天降られ、邪神を破り、国々を平定された威徳により、物部氏の遠祖、宇摩志麻治命をして、宮中に奉斎された。  のち崇神天皇七年、物部の伊香色雄命が大臣の職にあった時、詔により天社(あまつやしろ)、国社(くにつやしろ)を定めて八百万神を祀らしめられて、布都御魂神と共に石上の高庭の地に祀られ、石上大神と称えたのが、石上神宮の創めである。  物部氏が累代奉仕の任務につき、素盞鳴尊が八岐大蛇を退治された天羽斬剣(あめのはばきりのつるぎ)も祀られ、我が国の霊剣は草薙剣(くさなぎのつるぎ)を除き当宮に祀られることになった。ついで五十瓊敷命が剣一千口を作り神庫(ほくら)に納め、さらに丹波国桑田村の人甕襲(みかそ)が八尺瓊(やさかにの)勾玉を献じ(「日本書記」垂仁天皇87年の条)「釈日本紀」に引く天書には、天日槍(あめのひぼこ)の所来の神宝も納められ「神宮」の称号と共に古代史上独歩の地位をしめていた。下って平安時代末期にいたり、白河天皇の尊信あつく、永保元年(1081)鎮魂祭のために、宮中三殿の一つ、神嘉殿を拝殿に寄進され、神門を改めて、今日の機構に築造され、寛治6年(1092)上皇として親しく神宮に参詣された。  本社の称号は石上神宮・石上振神宮・石上布都御魂神社・石上布都大神・石上神社などと称され、また岩上大明神・布留大明神ともいわれ、略して布留社・石上社とも呼ばれた。  延喜式神明帳には、石上坐布都魂神社と見え、早くから官幣に預ったが、明治4年に改めて官幣大社に列し、同16年に、神宮号の復称が許された。  例祭

天照皇大神宮教(てんしょうこうたいじんぐうきょう)

新宗教を研究(主に天理教関係)をしていて天照皇大神宮教(踊る宗教)というものにぶち当たったので、いろいろと調べてみました。 今までは近代の新宗教というと天理教、大本教、金光教などが有名どころだと勝手に思ってたんですけど、この教団も有名ということを知りました。 何が有名かといいますと道の辻で踊るから有名になったみたいです。 wikipediaには「教団の教えによれば、宇宙絶対神は二千年に一度だけ地球に降臨するとされ、一度目は仏教の釈迦、二度目はキリスト教のキリスト、三度目が北村であるという。 教団では我欲をすてて無我の域に達することが出来れば、人と神が合一すると説き、無我の舞を踊るのが特徴である。そのため第二次世界大戦後には「踊る宗教」や「踊る神様」と喧伝された。」とありました。 仏陀とキリストの生誕の年代って543年ぐらいしか差がないので、2000年に一度というのはどうなのかな?という気もします。 しかし教団は今でも存在しますし、google earthで見ても大きな建物がありました。 山口県にあることも知りませんでした… また他に分かったら書いていきます…

Joyous Life

 天理教では、「陽気ぐらし」というキーワードがあるようです。  その訳語が“Joyous Life”だからどうってこともありませんが、そんな言い方すんのか。ぐらいなかんじです。

作ってみました。

 作ってみました。何となくなんですけど、自分の興味があることなんで少しずつ書いていきます。