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天理教と雅楽 其ノ十三

昭和35年は、教団内で盛んに雅楽講習会が行われた。 教会本部でも、この年の6月に元宮内庁楽師の豊昇三氏を講師として笙の講習会を開催している。 その後も元宮内庁楽師を読んで講習会を開いており、その中に笙は豊昇三氏、篳篥は久保喜久夫氏、龍笛は岡雅雄氏を招いている。岡雅雄氏はその後天理教音楽研究会雅楽部講師となり、天理教の雅楽のために尽力している。

天理教と雅楽 其ノ十二

昭和31年は教祖70年祭の執行された年で、このとき、記念の演奏会が1月25日、28日、2月5日、15日と開かれており、このうち、28日は、青年会恒例の舞楽の会であった。 翌32年の新春の1月3日には、日本短波放送の要請により天理教教会本部雅楽部が吹き込んだ「林歌」が流された。 4月20日には青年会主催にて、「雅楽と舞楽の夕並びに映画」が開催された。 昭和33年10月26日は天理教芸術祭の一環として開催された催しで「雅楽御供え演奏」が行われた。

天理教と雅楽 其ノ十

昭和28年2月には、教会本部雅楽部が大正12年に第一回を記した演奏会を「よなほり演奏会」として復活し、10月には、青年会主催の青年雅楽発表会が天理教館において開催された。この演奏会には、天理教校専修科などが出演した。 このとき東京教区は新作舞楽「黎明」を発表し、大阪教区は「迦陵頻」を童舞で披露したとされている。

天理教と雅楽 其ノ九

太平洋戦争勃発は、少なからず天理教の雅楽に影響を与えたようである。年々盛んになっていた演奏会は開かれることはなく、祭儀や慰霊に演奏する程度となった。この影響は、戦中の困窮とも重なり、戦後もしばらく続いたようである。 教会本部では、楽器の購入、譜本の作成、講習会の開催などを通して徐々に復興を目指していた。 昭和22年に大阪教区雅楽部の発足、昭和24年の雅楽愛好家が観月演奏会を開くなど教団内の雅楽の復興の兆しがあるように思えるが、全体的な活動としては昭和26年頃になる。 昭和26年に、東京教区雅楽が再結成された。また河原町雅韻会も、初心者の合宿講習会や、各管ごとの講習会を開催した。 昭和26年に秋季大祭の日に、「舞楽奉納の夕」を開催し、教会本部雅楽部の主催で開催され、このときに東京教区が創作舞楽「陽和楽」を披露したとされる。 この頃から徐々に雅楽への関心が再び出て来たと言えるであろう。

天理教と雅楽 其の八

雅楽の愛好者が教団内で徐々にではあるが、増加すると、自主公演だけではなく、合同の演奏会や発表会が開催されるようになった。 古いところでは、昭和5年より、従来は教会本部雅楽部独自で開催していた雅楽演奏会を、天理中学校、天理教校と合同で行うようになり、昭和16年1月25日には、天理時報社主催による第一回雅楽競演会が天理教館を会場に開催された。 このときには、7団体が合計17曲演奏した。同年10月には、天理教雅楽連盟主催の演奏会が行われた。 この演奏会では、教会本部雅楽部、天理中学の他に名古屋教区庁婦人雅楽部の参加があり、更に、当時、本部の雅楽指導をしていた元宮内省楽師の大村恕三郎が篳篥の模範演奏を行っている。

天理教と雅楽 其の七

教会本部の雅楽部(現在あるのかは不明)の体制がだんだんと整いだし、教内の雅楽熱が高まってくると、雅楽は教育の場にも取り入れられるようになる。 まず、昭和3年、天理中学校(現在の天理高校)の設立とともに、課外クラブ活動として雅楽部が設立され、これが現在の天理高校求道部雅楽班となっている。 昭和5年には天理教校内によのもと会が組織され、この中に、舞楽部、管弦部が設立された。これが現在の天理教校専修科雅楽班となっている。 両校の活動は、自主公演としての雅楽演奏会を開催するなどである。また雅楽を習得した両校の卒業生によって各地の雅楽に対する関心が一段と高められている。

天理教と雅楽 其の五

その後、各地方に点在する部内教会でも大和舞を行うようになり、その普及のため講習会が開催され、これを契機に教団内で雅楽への関心が高まっていった。 この頃からおつとめ(1)の復元とともに「神の御国」は昭和8年春、廃止となる。祭儀との関係により取り入れられた天理教の雅楽も、月次祭の奉仕としての雅楽は当然であるが、音楽としての雅楽にも関心が高まり、大正10年頃にできた河原町大教会の雅韻会のように各教会ごとに愛好者が雅楽会を組織するようにもなり、講習会、演奏会が各地で開かれるようになる。 教会本部でも、大正12年2月には、第一回の雅楽講習会を開催しており、その最終日にあたる2月11日には、第一回雅楽演奏会を参拝場(?)神殿(?)_(現在の会議所)を会場に開催している。これは、昭和5年頃まで、毎年、開催されている。 (1)三原典の一つであるみかぐらうたを行うこと。

天理教と雅楽 其の三

天理教では、明治時代の宗教政策により、天理教が制度上神道(教派神道)の枠内に組み込まれたことで雅楽に関係を持つようになる。神道形式の祭儀を行うようになるとともに、その儀礼の音楽である雅楽も用いられるようになったと考えられる。(しかし何かの本に「がくにん」ということばも出て来ていたような…) 天理教の儀礼の中に雅楽が初めて取り入れられたのは明治20年(1887)2月23日(陰暦2月1日)の教祖・中山みきの葬儀のときらしいが、実際、奏楽されたかは明らかでない。翌明治21年の教祖一年祭のときには、春日の伶人竹内昭方他6名の人が奏楽している。その後、天理教教会本部仮開筳式(明治21年4月)、天理教教会本部開筳式(明治21年11月)、教祖5年祭(明治24年1月)、教祖墓地改葬(明治25年5月)、教祖10年祭と式典が行われ奏楽されている。 しかしこれまでの奏楽の演奏者は、春日や神道本局といった、天理教外の人々であるが、時期は不明だが、天元組や郡山系統などの雅楽の心得のある人々が演奏しているようである。