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天理教と雅楽 其ノ九

太平洋戦争勃発は、少なからず天理教の雅楽に影響を与えたようである。年々盛んになっていた演奏会は開かれることはなく、祭儀や慰霊に演奏する程度となった。この影響は、戦中の困窮とも重なり、戦後もしばらく続いたようである。 教会本部では、楽器の購入、譜本の作成、講習会の開催などを通して徐々に復興を目指していた。 昭和22年に大阪教区雅楽部の発足、昭和24年の雅楽愛好家が観月演奏会を開くなど教団内の雅楽の復興の兆しがあるように思えるが、全体的な活動としては昭和26年頃になる。 昭和26年に、東京教区雅楽が再結成された。また河原町雅韻会も、初心者の合宿講習会や、各管ごとの講習会を開催した。 昭和26年に秋季大祭の日に、「舞楽奉納の夕」を開催し、教会本部雅楽部の主催で開催され、このときに東京教区が創作舞楽「陽和楽」を披露したとされる。 この頃から徐々に雅楽への関心が再び出て来たと言えるであろう。

国家神道と日本人

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この新書は国家神道という明治維新前後の宗教形態を明らかにすることで、日本人の宗教観のようなものを明らかにすることを目的としている本というのが感想でありました。 このような試みは 神々の明治維新―神仏分離と廃仏毀釈 (岩波新書 黄版 103) に代表されるようにかなりの研究の蓄積がある分野と言えるかと思います。 天理教の発生時期の周辺の事上もよく分かると思います。 それも踏まえて読んでみると良いかと思いますが…

天理教と雅楽 其の八

雅楽の愛好者が教団内で徐々にではあるが、増加すると、自主公演だけではなく、合同の演奏会や発表会が開催されるようになった。 古いところでは、昭和5年より、従来は教会本部雅楽部独自で開催していた雅楽演奏会を、天理中学校、天理教校と合同で行うようになり、昭和16年1月25日には、天理時報社主催による第一回雅楽競演会が天理教館を会場に開催された。 このときには、7団体が合計17曲演奏した。同年10月には、天理教雅楽連盟主催の演奏会が行われた。 この演奏会では、教会本部雅楽部、天理中学の他に名古屋教区庁婦人雅楽部の参加があり、更に、当時、本部の雅楽指導をしていた元宮内省楽師の大村恕三郎が篳篥の模範演奏を行っている。

天理教と雅楽 其の七

教会本部の雅楽部(現在あるのかは不明)の体制がだんだんと整いだし、教内の雅楽熱が高まってくると、雅楽は教育の場にも取り入れられるようになる。 まず、昭和3年、天理中学校(現在の天理高校)の設立とともに、課外クラブ活動として雅楽部が設立され、これが現在の天理高校求道部雅楽班となっている。 昭和5年には天理教校内によのもと会が組織され、この中に、舞楽部、管弦部が設立された。これが現在の天理教校専修科雅楽班となっている。 両校の活動は、自主公演としての雅楽演奏会を開催するなどである。また雅楽を習得した両校の卒業生によって各地の雅楽に対する関心が一段と高められている。