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島田裕巳氏の記事

今回もちょっと興味深い記事を見つけましたので、記載します。 こういう裁判や記事を見ると宗教は難しいとつくづく思う。 後半にも島田氏は書かれていますが、布施、お供え、募金などといった金銭はこれから違法と合法という境界の線引きが難しくなってくるでしょう。 http://agora-web.jp/archives/1448627.html これはまだ大きく報道されているわけではないが、4月13日に名古屋地裁で興味深い判決が出た。 この裁判は、名古屋市の主婦(51歳)が、熊本市の宗教法人「肥後修験遍照院」と、その主宰者である下ヨシ子氏などを相手に約950万円の損害賠償を求め たものである。名古屋地裁は、宗教法人の側に主婦が儀式のために支払った金と慰謝料を含め、約610万円を支払うよう命じた。請求額を下回ったのは、最初 の相談料などが差し引かれた結果で、宗教法人の側の完全な敗訴である。 これを報じた『読売新聞』(2012年4月13 日付)の記事では、主婦は、体調不良や子どもの病気といった悩み事を抱えていたとされる。そんなところ、2002年8月にテレビ番組で肥後修験遍照院のこ とを知り、京都府宇治市にある同院の別院を訪れた。主婦は、その別院から「浄霊で魂を清めれば、災いから守られる」と言われたため、それから2008年 11月までのおよそ6年間、「浄霊」などの儀式代として総計約530万円を支払った。 肥後修験遍照院の側は、女性は自発的に自分たちのもとを訪れたのであって、違法性はなかったと主張した。しかし地裁は、肥後修験遍照院の側は、儀式の後も 「霊に取りつかれている」などとくり返し説明し、「不安に陥れたり畏怖させたりする行為は違法と認められる」と判断したのだった。 紀藤正樹弁護士のホームページには、肥後修験遍照院の集金システムが詳しく紹介されているが、それによれば、額は時期によって異なるものの、主婦の場合、最初の相談料として3万円を支払ったのからはじまって、浄霊が3万円、守護霊を入れる儀式が20万円と進んでいった。 しかも、守護霊に対しては月1度パワーアップする必要があるとされ、それが1回1万円。守護霊の上に守護神があって、これは主宰者の下だけが入れることが できるもので120万円。これもパワーアップがあって1回3万円。そして、支配神が100万円であ...
幡鎌一弘編 2012 『語られた教祖 近世・近現代の信仰史』 法蔵館   という新刊です。 宗教研究のというより歴史学や宗教学と分野は分かれると思いますが、その専門の方々が執筆された論集です。実は読んでいないんので掲載しようか悩んだんですけど、書いているメンバーが良かったので掲載しました… 目次: 聖なる歴史としての教祖伝―ナラティヴによる脱構築と再構築 新宗教文化の脱教団的展開―教祖研究の“作法”をめぐって ジェンダーの視点から見た教祖伝 如来の化身としての親鸞・一学徒としての親鸞 日蓮はどのように語られたか?―近代日蓮像の構築過程の文化分析 教祖像の力学―金光教の教祖探究から 『稿本天理教教祖伝』の成立 教祖論・教団論からみた平田国学―信仰・学問と組織

戒名必要ない56%、葬式簡素派9割…読売調査

読売新聞 で気になる記事がありました。こういう記事を読むと「葬式」って必要ないのかな~~と思う反面これは戒名の話で式自体は行う。ということなんだろうか。天理教には関係ありませんが… 人生の通過儀礼というと大げさかもしれませんけど、どうなのでしょうか。それに葬式って本人じゃなくて残された家族がすることだからここらへんも遺言でも残しておかないと本人の思い通りにはならないでしょうし。 時代と一言で片付けられることじゃないと思いますが、なかなかこういう数字で見ると考えさせられますね。 ------------------------------ 読売新聞社は2月から3月中旬にかけて冠婚葬祭に関する全国世論調査(郵送方式)を実施した。  冠婚葬祭を簡素に行う方がよいか、盛大に行う方がよいかを個別に聞くと、「簡素に」との答えは「法要」96%、「葬式」92%、「七五三」86%、「結婚式・披露宴」84%で、いずれも90%前後に達した。  これらについて、慣習やしきたりにこだわらなくてよいと思う人の割合は、「結婚式・披露宴」78%、「法要」59%、「葬式」58%、「七五三」54%とすべて半数を超えた。冠婚葬祭をめぐる国民の意識は多様化している。  自分の葬式を仏教式で行う場合、戒名(法名)が「必要ない」と答えた人は56%で、「必要だ」43%を上回った。年代別でみると、「必要ない」は40歳代で最多の63%となるなど、20~60歳代の各年代で多数だったが、70歳以上だけは「必要だ」54%が「必要ない」44%より多い。

臨床宗教師の創設:東北大学

東北大:宗教の枠超え悲嘆と向き合う 来月から研究の講座を設置 臨床宗教師の創設も という記事を見つけました。本当に興味深い記事でしたので、記載させて頂きます。 東北大は26日、宗教者が特定の宗教を超えて人々の悲嘆と向き合えるよう研究する「実践宗教学寄付講座」を4月から3年間、大学院文学研究科に設け ることを正式決定した。宗教への中立性を求められる国公立大では異例の試み。将来的には宗教者らが人々の悲しみを癒やす「臨床宗教師」(仮称)の資格制度 の創設を目指すという。【平元英治】  県内のキリスト教系団体でつくる一般財団法人「東北ディアコニア」からの寄付金で運営。教授1人、准教授2人を置き、東日本大震災により家族や知人を失った被災者が悲しみに沈んでいることを受け、宗教から被災者に寄り添う方法を模索する。  欧米で宗教者が大学で専門教育を受け、軍人や治療の見込みがない患者の悲嘆に向き合う「チャプレン」として働く仕組みが定着していることを研究。 大学などで日本の伝統的な生命観などを学びながら、人々の人生と向き合えるよう育てる仕組みづくりを考察する。震災の被災者支援に携わってきた仏教の僧侶 らを招いた講義も検討している。  講座の立案者の一人、東北大の鈴木岩弓教授(宗教民俗学)は「震災では万単位の犠牲者が出た。やりきれない思いをしている遺族や、死生観を考え直 した人々はその何倍もいる。『臨床心理士を配置すれば、被災者の心が癒やされる』というレベルを超えている」と講座の必要性を強調している。  ディアコニアの川上直哉理事長は「宗教者の仕事は、人々の苦しみを軽くすること。役割を更に果たすためのステップになるよう期待している」と話している。

日本人の死生観を読む

毎日新聞の今週の本棚という企画欄に島薗進先生の『日本人の死生観を読む』が紹介されていました。 日本の新宗教研究でも著名な先生ですので紹介致します。 以下の通りです。 http://mainichi.jp/enta/book/hondana/news/20120318ddm015070013000c.html 今週の本棚:沼野充義・評 『日本人の死生観を読む』=島薗進・著 (朝日選書・1470円) ◇むき出しの「死」とまともに向き合うために 文明はおぞましいものを人の目から隠す。その最たるものは死だろう。特に日本では報道でも死体を映しだすことを極力避けるので、いまの子供たちは人の死に直面することがほとんどない。ところが、昨年三月の大震災は突然、死をむき出しの形で私たちに突きつけた。一方、原発事故はまだ放射能による死者を出していないと指摘する人がいるとはいえ、多くの人々と広大な土地と自然を緩慢な死の潜在的な危険にさらした。 そんな折に、ぜひ読むべき好著が出た。『日本人の死生観を読む』は、近代日本において「死生観」を表現した日本人の書物やテキストを読み解いていくことによって、人の生き死にとはいったい何であるのか、考える本である。著者は「死生学」という耳慣れない多分野的学術研究のリーダー格として尽力してきた宗教学者。「納棺師」、つまり死者を葬儀の前に棺に入れる儀式に携わる人を主人公とした映画「おくりびと」とその原作から説き起こし、「死生観」という言葉を確立した明治時代の宗教思想家、加藤咄堂(とつどう)にいったんさかのぼり、それから作家の志賀直哉、民俗学者の柳田国男とその業績を引き継いで独自の学問体系を展開した折口信夫、戦艦大和に乗って沖縄特攻作戦をかろうじて生き延びた吉田満、そして最後には、がんと直面して生きた宗教学者の岸本英夫と作家の高見順へと、考察を進めていく。 ここに登場する死生観はじつに多様であり、ここで簡単に要約することはできない。儒教・仏教・武士道を背景に「死生観」を打ち立てようとした加藤咄堂に対して、乃木大将殉死の報(しら)せを聞いて「馬鹿な奴(やつ)だ」と日記に書いた志賀直哉。日本の「常民」に見られる「円環的」(生まれ変わりを信ずるといった)死生観を理解しながら、それが近代社会においてどのように生かされうるのかについて考えた柳田と...

天理教教義学研究―生の根源的意味の探究

澤井義次著『天理教教義学研究―生の根源的意味の探究』 昨年の11月に出版された書籍です。なぜかチェックしていなくて最近になって存在を知りました。 天理教教義学というと諸井慶徳氏がかなり精力的に行っていたようですが、これまでは同名のタイトルの書籍はありませんでした。 そういう意味では天理教を内側から見た学問としては意味のある一冊ということになるかと思います。 私のような浅学には深く理解はできませんが、ご興味のあるかたはどうぞ…

大乗仏教と小乗仏教とは何か?

今回は天理教や新宗教とはことなることを書きます。 というのもタイトルにあるように何がどう違うのかいまいちわからないからなんです。 大乗は北伝とも言われ、サンスクリット語の仏典が主に翻訳され中国、朝鮮半島、日本と伝わって来ました。 小乗は南伝とも上座部とも言われパーリ語仏典が主に翻訳され、スリランカ、ミャンマー、タイという具合に東南アジア諸国に伝えられました。 お釈迦様は81歳で亡くなられ(入滅)ました。仏典というのはガヤー村のピッパラ (pippala) 樹の下で悟りをひらきその後お弟子さんたちに説いた教えをまとめたものだと解釈してます。 それらのまとめたものは八万四千のお経があると言われており、直接お釈迦様の口から説かれたものを小乗教典。お釈迦様の教えに従って教えをより深く説き明かしていって作られたお経や注釈書が大乗教典と呼ばれているようです。 これらが北と南に分かれて時代とともに解釈が変わっていった。というぐらいのことなんでしょうか。 小乗は出家しないと涅槃の世界にはいけないと思っていたんですけど、小乗でも出家しなくても阿羅漢になれるということらしく、だんだんややこしくなってきました。 大乗仏教と小乗仏教の根本の違いはこの点だと思っていたんですけど、実際は違うようです。 やはり仏教という枠組みで考えること自体が無謀という一言でかたづけられるということなんでしょうか…