2010/11/29

天理教学?

 天理教は教団として教義学の確立に頑張っているみたいです。

 いろんな雑誌があり、論文の質はともかくなにかと雑誌があります。

 なんのためにここまでやるんだろ??と素朴に思いながら、読んだりしてます。

 論集に限らず機関誌もやたらと多く、書いている人は大学教員から一教会長まで様々…

 

2010/10/23

最近の新宗教研究

 最近の新宗教研究はどんなもんだろうか思い調べて見ると案外されていない。一時期のようなブームはさってしまったのだろうか。それとも新宗教研究しても就職も無いし、就職出来そうなテーマにしよう。みたいな感じなんでしょうか。

 新宗教研究に限らず宗教学関連の研究ってあまりないような気がする。やっぱり理系のほうが職もあるし、研究するのに予算も取りやすかったりするんでしょうか…

 日本だと欧米と比べて宗教研究はおざなりにされそうな気がするので、そのせいなのか。

 私は高尚な思想も何もないので、興味があることにブレながら書いてますから、それはそれでいいんですけど。

2010/09/23

宗教学的考察

 最近特に何もしていないので、書くこともありません。

 勉強もしてないし、する気もおきませんね。

 いかん。いかん。と思ってますけど、うまいこといきません。

 宗教学的考察という単語が目の前をちらつきますが、そんな考察する気力がわかない…

2010/08/08

日本宗教学会

日本宗教学会 第69回学術大会のポスターを見つけました。

世界の四大思想家が載ってます。

釈迦
ソクラテス
孔子
カント

です。

だからどうってことはありませんけど、下にURLを書いておきます。

http://bunbun.toyo.ac.jp/intetsu/jars2010/poster_jars2010.pdf

釈迦を思想家とすることはどうなのか?って勝手に思いますけど、巷ではそのように言われているということでそれはそれでありなのかもしれませんね。

私にはよく分かりません。

この大会でも天理教に限らず新宗教研究に関する発表はあるみたいですので、そこらへんは興味がすごくありますね。

2010/07/19

島薗進先生のブログ

島薗進・宗教学とその周辺

皆さんご存じでしょうけど、宗教研究の有名人。というか、宗教学会の会長してたり、東大の教授の島薗先生のブログにおもしろい記事があったので記載します。

島薗先生は宗教学のどのあたりを専門にしてるのか分からないんですけど、もしかしたら全部なのかもしれません。最近は死生学も盛んに研究されているみたいですし、どうなんでしょうか。ただこの先生はなんかすげー。としか言いようがないですね。

人によってはご批判もあるかもしれませんけど、目を通すだけの価値は十分になると思います。
以下抜粋です。


日本の世俗化と宗教概念
2010年6月1日 シンポジウム・国際ライシテ宣言とアジアの世俗化、2008年11月28日。(後、羽田正編『世俗化とライシテ』東京大学グローバルCOE「共生のための国際哲学教育研究センター」、2009年、刊に収録)。

Ⅰ.日本の世俗化をめぐる4つの考え方 
 日本の世俗化はいつ頃に決定的な転機があったのか。これについては、4つの考え方があり、それぞれに妥当性をもっている。
第1の考え方では、16世紀から17世紀にかけて、仏教やキリスト教勢力を抑圧して、将軍権力が確立した時期がもっとも重要な転機だとするものだ。割拠する戦国大名と一向一揆の勢力を抑えて全国統一を行った織田信長は、その過程で本願寺や比叡山延暦寺などの強大な宗教勢力を武装解除し、武将の政権に従属する地位へと貶めた。続いて豊臣秀吉や徳川将軍はキリシタンを抑圧し仏教を一面優遇するとともに、仏教教団への強力な統制体制を整えていった。その後、支配階級である武士は行政官僚へと転じ、その精神的バックボーンとして次第に儒学を学ぶようになる。仏教の影響力が後退し、儒学や神道が統治の精神的根拠となっていく過程は世俗化の進展といえないこともない。
 第2の考え方では、1867年の明治維新に続いて西洋諸国を見習いながら国民国家を形成期しようとした時期にこそ、日本の世俗化の決定的な転機がある。当初、神道国教化を目指した維新政府だが、仏教勢力の抵抗やキリスト教の布教容認や信教自由制度の確立を求める西洋諸国の要求に従って、それなりに「信教の自由」や「政教分離」を国家体制に具体化していくことになる。しかし、天照大神の血統を引く天皇の神聖な地位を国家統合の中心にすえる体制は次第に整えられていった。すなわち、国家神道体制が形成され、諸宗教を進行する自由も国家神道への忠誠の枠を出ないはずであったから、これがどこまで「世俗」体制といえるかどうか判断は分かれるところである。
 第3の考え方では、1945年に占領軍が民主化政策の第一歩として神道指令を発し、国家神道を解体し、続いて46年に天皇の人間宣言がなされ、日本国憲法が公布されて信教の自由が法的に確立されたことによって世俗化が決定的に進んだとするものである。戦前の体制では、天皇の宮中祭祀(皇室神道)とそれに連なる神社神道は神聖なものとして尊ばれ全国民はこれに参与させられた。また、御真影(天皇の神聖な肖像)と教育勅語が学校で礼拝され、神聖な「国体」の教説が教えられたから、憲法に信教の自由が規定されていても、それは限定的なものにすぎなかった。皇室神道と神社神道と国体の教義からなる国家神道は、強く国民生活に影響を及ぼした。1946年以後、ようやく日本は世俗国家へと変容したのだ。
 第4の考え方では、以上の経過を経ても、なお、日本の世俗化は完了していないというものである。占領軍は「国家神道の廃止」を指示したとされるが、実際には神社神道を国家から引き離したにすぎなかった。宮廷祭祀にはほとんど手をつけなかったので、皇室神道はかなりの程度、保存された。天皇は「国民の象徴」として公的な存在として大きな役割を果たしているから、皇室神道は実質的に国民生活に大きな影響を及ぼし続けている。皇室神道に大きな意義を与え、国民生活において日本の神々とその子孫と信じられる天皇の地位を高めようとする政治活動はたいへん熱心に行われてきた。伊勢神宮、靖国神社、宮廷祭祀の公的役割の復権がしばしば試みられ、元号法案や建国記念日の制定のように、いくつか具体化されてきてもいる。その意味では、国家神道は今なお解体されつくしてはおらず、潜在的に国家統合の機能を担い続けていると見ることもできる(島薗 2006)。

Ⅱ.それぞれの考え方の妥当性
 以上のどの議論も成り立つというのが、私の見方である。つまり、日本は「世俗化」に対応するような政治制度上の重要な変化を3度にわたって経験している。それらは、それぞれ(1)統治階級の脱仏教化・脱来世化――16~17世紀、(2)教団宗教の多元性・自律性の容認と科学的合理主義の導入――明治維新後、(3)国家の聖性の大幅縮減――1945年以後、の3つである。
 では、それらは「ライシテ」というような単一の用語で指すことができるものだろうか。どうもなかなか難しいように思う。なぜかというと、そもそも宗教対非宗教、宗教対政治というような対比がかんたんにはなりたたないからではないかと思われる。
 3つの転換点のうち、第1の転換点と第2の転換点は、ある意味では新しい宗教性の興隆に向けた転換点でもあった。第1の転換以後は、公的領域で儒教や神道が勢力を増し、武士や豊かな町人・農民が儒教や神道に共感するようになっていく時期の始まりだった。では、仏教がもつ宗教性と儒教や神道がもつ宗教性はどのように対比されるべきなのだろうか。そこには確かに、来世的、超越的なものの地位を低め、現世重視の思考法や行動様式へと転換していく変容過程がある。
 第2の転換以後は、国家神道が形成され多くの国民がそれに巻き込まれていくのだが、それは啓蒙主義的な近代的知識の旺盛な吸収、また合理的な知識に基づく近代的な社会制度の導入と並行してもいた。後者の側面から見れば、確かに国民生活において世俗化が急速に進んだとも言える。エリートの間でキリスト教や仏教は一定の影響力をもったが、科学的合理主義の方がより大きな影響力を及ぼしたのは確かである。
 第3の転換以後は、確かに国民の精神的自由の度合いは高まった。国家神道が残存しているとしても、国民はそれにさほど参与しなくてもすむような法制度や政治体制がある程度、整えられている。キリスト教や新宗教の信仰生活を送ること、国家神道の儀礼や教えを強制されないことは今のところほぼ保障されている。とはいえ、靖国神社問題や天皇の代替わり儀礼、あるいは教科書の記述をめぐってしばしば論争が起こっている。国家神道の強化によって精神の自由が脅かされると感じている人は少なくないのである。
 たとえば、靖国神社が国家的な追悼施設として公的地位を回復したとしよう。また、天皇がそこに礼拝することが当然のことと見なされるようになったと仮定しよう。その場合、戦死者の祭祀は国家神道的な色彩を大幅に強めることになるだろう。また、神道的な天皇の代替わり儀礼が大々的に国家的行事として行われるなど、天皇が宮中で行っている祭祀が公的な地位をさらに回復し、国民生活にとって重要な意義をもつものだと認知されるようになったらどうなるだろう。それは日本の住民の信教の自由、精神の自由に大きな制限を加えることになるだろう。
 しかし、そうした変化が起こるためには、必ずしもラディカルな法制度や政治体制の変革が必要なわけではない。つまり、現代日本の信教の自由、精神の自由は、きわめて微妙な制度運用や政策決定に依存しているのである。
Ⅲ.西洋的「宗教」概念の限界を超えて
 以上のような日本の信教の自由や近代的な政教関係の形成過程を適切にとらえる上で、ライシテ、あるいはそれにあたる用語が有用だろうか。どうもそうは言えないように思う。
 なぜか。それはライシテ論では、基本的な概念が西方キリスト教のモデルにのっとって形成されており、それを他の文明圏に適用しようと思うと無理なあてはめになってしまうからではないだろうか。ライシテ論はそもそも政治組織(国家)と宗教組織(教会)が明確に分化してきた西方キリスト教世界において、近代化の過程で生じた事態を描き出すのに有効だった。だが、他の文明圏では、そもそも政治組織と宗教組織がきっぱりと分化していないことの方が多い。だとするとライシテという語で指すものが、西洋の場合と相当に異なったものになるのも当然ではないかと思われる。
 東アジアでは国家がそもそも聖なる秩序の中心として機能するという体制が長期にわたって続いてきた。中国の皇帝は帝国を統合する祭祀を行い、文明の中心に位置する聖なる存在として諸宗教を統制すべきものと見なされた。中国では宋代以降、韓国では李朝以降、日本では江戸時代以降、皇帝の統治権を代行する官僚層も儒教に基づく神聖な秩序体系の宣布者とも見なされるようになる。これらは超越的な次元を含んでいるが、キリスト教と教会組織が政治体制と区別できる自律的領域をもち、「宗教」とよばれたのと同じような意味で「宗教」であるわけではない。儒教を「宗教」とよぶことについて私は認めてよいと考えるが、その場合、「宗教」の語の意味が西洋的な意味での「宗教」とはやや異なってくることを明確にしなくてはならない。このように諸文明間の文化枠組の相違を十分に意識した上で、概念の調整を行わなくてはならないのだ。
 これと同じようなことは、イスラーム文明やユダヤ教文化や東方キリスト教文明やヒンドゥー文明や先住民文化についても言えるだろう。宗教の存在形態が異なる他の文明や文化において、宗教の多元性や信教の自由・精神の自由について論じる際には、基本的な概念をどのように構成していくのかが重要な課題になってくる。ライシテ概念は、特殊西洋的な「宗教」概念とセットになって明快な意義を有する概念であり、他文明・他文化に適用するとき、それが適切に使えない場合が多々あるかもしれないことを覚悟しなくてはならないだろう。イスラームを「宗教」として論じるときには、キリスト教圏の「宗教」概念とは異なる意味が必然的に含まれざるをえず、そのことをよく自覚した上で用法を間い直すことが必要になってくる。現代はまさにそのような主要概念をめぐる「文明間の対話」が求められる時代である。
 では、ライシテ概念を用いることによって、そのような「文明間の対話」に貢献することは可能だろうか。もちろん可能である。フランスやいくつかの国々の文脈で用いられてきたライシテ概念の内実を明確にしつつ、他文明・他文化において用いる際、どこで齟齬が生じるかを明らかにしていかなくてはならいだろう。また、それぞれの文明や文化において、ライシテに対応する現象がどのように生じてきたか、また、それがどのような概念でとらえられてきたかをよく調べ、共通の用語で論じるための基盤を整えていかなくてはならない。
 まず問題となると思われるのは、複数の「宗教」としてとらえるとき、それらが同等の地位をもつものと見なしてよいかどうかということである。たとえば、東アジアでは仏教と儒教と神道は、それぞれ同じような意味で「宗教」と見なしてよいかどうかが問われざるをえない。メジャーな「宗教」とセクト、カルトとよばれるような集団を同等に扱うことが当然の規範となるかどうかという問いも生じる。また、統治体系の基本前提と結びついた「宗教」と、そうではない集団を担い手とする「宗教」の間でそもそも平等ということがありうるのかという問題もある。
今ひとつ重要なのは、「宗教」を個々人の内面の信仰に関わる事柄、またそのような個人が特定の宗教組織に「帰属」する事柄という観点からのみ捉えてよいのかという問題、また、国家や政治と異なる自律的な宗教独自の領域や組織をもつのが当然だという前提を保持してよいのかという問題である。個々人は必ずしも自律的な宗教組織への「帰属」という形ではなく、宗教に関わることが少なくない。
たとえば、日本の国家神道の場合、「宗教」への帰属の意識を持たない多くの人びとがその儀礼世界に参与する。そもそも国家的な儀礼と国民の関係は、宗教帰属の問題とは言えないだろう。政治的な意義をもつさまざまな事柄が、「宗教」帰属とは言えない形で国民を宗教に関与させる。こうした問題を論じていく上で、ライシテの概念は有効だろうか。
以上のような諸問題についての差異を詳細に認識し、さまざまな文化的、政治的環境において宗教的な多元性とそこでの信教の自由・精神の自由がどのように確保できるか、多くのケーススタディを積み上げ、比較研究を進めていくべきだろう。その後に、なおライシテという語が有効な語として機能しうるかどうか、今の段階では判断が容易ではないと思われる。

参考文献
島薗進「現代宗教と公共空間――日本の状況を中心に」『社会学評論』第50巻第 4号(通巻200号)、2000年3月
同 「国家神道と近代日本の宗教構造」『宗教研究』329号、2001年
同 「比較宗教研究の現在と東アジアの視座――戦死者追悼問題と国家神道の概念を手がかりとして」、篠田知和基編『神話・象徴・文化』楽浪書院、2005年 
同 「戦後の国家神道と宗教集団としての神社」圭室文雄編『日本人の宗教と庶民信仰』吉川弘文館、2006年a
 同 「神道と国家神道・試論――成立への問いと歴史的展望」『明治聖徳記念学会紀要』復刊第四十三号、2006年b
 同 「新しいスピリチュアリティと宗教の再定義――世俗化と宗教性の新しい形式」『日仏文化』第73号、2007年
同 「国家神道はどのようにして国民生活を形づくったのか?――明治後期の天皇崇敬・国体思想・神社神道」洗建・田中滋編『国家と宗教――宗教から見る近現代日本』法蔵館、2008年a
同 「宗教史叙述の罠――神道史・国家神道史を例として――」市川裕・松村一男・渡辺和子編『宗教史とは何か』リトン、2008年b
島薗進・鶴岡賀雄編『〈宗教〉再考』(鶴岡賀雄と共編)ぺりかん社、2004年
Susumu Shimazono, “State Shinto and the Religious Structure of Modern Japan,” Journal of the American Academy of Religion, vol.73, no,4, December 2005
Ibid., “State Shinto and Religion in Post-war Japan,” in James Beckford and N.J.Demerath Ⅲ, eds., The Sage Handbook of the Sociology of Religion, Sage, 2007
Ibid., “State Shinto and Emperor Veneration,” Ben-Ami Shillony, ed., The Emperors of Modern Japan, Brill, 2008

すごすぎて難しい…

2010/07/10

新宗教研究

 最近知り合いの方になんで今新宗教研究してんの??

 みたいなことを聞かれました。私が感じる範囲では悪意はなさそうだったんですけど、真相は分かりません。

 確かに宗教学してると言うとなんで??というようなコメントは出ます。

 研究者どうしだとそうでもありませんけど、学生間でもたまに聞きます。

 なぜ?と聞かれると答えないといけないんですけど、なかなかうまい返しができない。というのも本音です。

 それではいかんと前々から思ってはいるんですけど、なかなか実践できないもんです。

 興味があるから。とかじゃしょーもないしな。どうしたもんかな…

2010/07/02

善福寺



天理に行ったので、善福寺に行ってきました。
門は明治初年に内山永久寺から移建されたらしいです。
浄土宗知恩院末

文化14年(1817)天理教教祖が、五重相伝を受けたお寺です。

冷泉為恭という有名な画家のお墓もありました。

2010/06/30

看板の掛け替え

 ある人から下の写真を頂きました。

 どのようなタイミングで変わるのかは知りませんけど、こういうのを画像に残す人もいてるもんかと関心しました。

 写真は良い天気です。

 

2010/06/15

see haiku here

http://seehaikuhere.blogspot.com/

こちらのサイトの人は天理教の人なんだそうです。

友人から聞いたので、見てみました。英語のページですので、私は理解できませんが、絵がとても綺麗かと。

よく分かりませんが、教団がでかいといろいろと芸のある人がいるもんだと思いました…

2010/06/12

ゴミ問題??

これは宗教研究とは関係は無いんですけど、偶然みつけたので書きます。
下記の記事はyahooニュースから持ってきました。

知らなかったんですけど、いろいろと調べると法人は普通にゴミを捨てれないんだそうです…

天理市が宗教法人天理教など5法人のごみ処理手数料を、事業系より安い家庭系として扱ったのは違法として、天理市民オンブズマンの梅光雅幸代表幹事が11日、市を相手取り、南佳策市長に08年度の差額約1070万円を支払わせるよう求めて奈良地裁に提訴した。
 訴状などによると、市は96年、宗教法人天理教や天理大、天理よろづ相談所病院など5法人のごみを家庭系として扱うことを決定。08年度は計約1520トンを処理した。当時は家庭系が100キロまで無料で超過分は10キロ当たり40円、事業系は10キロまで無料で超過分は10キロ当たり100円だった。
 市は「ごみ処理施設を建設した際、天理教から約7億円の寄付を受けたため」と説明。梅光代表幹事は、5法人が市条例に基づく減免措置の申請をしていないことから「市長の職権乱用だ」と主張している。天理市は今年4月から、天理大など3法人のごみを事業系として扱っている。

こういうことをまともに取り締まっていたら、本当に大変だろうな。というのが正直な感想です。

2010/06/10

天理大学付属図書館

天理大学付属図書館に行ってきました。

この図書館は国宝級のものが沢山あるんだそうです。

自分がほしい文献は無かったんですけど、見に行くだけでも価値はあるかと思いました。

ちなみにこの図書館の設計は、天理教の偉い人の人脈で姉崎正治が関係しているんだそうです。

建物は古い感じで勉強するには良い環境のようです。

マニアックな研究をする人。または天理教関係の研究をする人には必須の図書館ですから、一度見学されるのもよいかもしれませんね。

2010/06/04

新宗教研究における天理教(1)

 新宗教の中で天理教というのは老舗というか、それなりの地位があるみたいです。
 一応日本で独自に発生した宗教としては一番古いですから。

 同時期に発生した金光教や大本教などと比べられたりもしますが、一応独自の教義を持った教団です。

 天理教は比較的早い時期から研究対象として扱われて来てますし、現在でも全国規模の学会でもとりあげられています。

 天理教の興味を引く点としては教団内での研究の蓄積が膨大であることです。
 
 仏教系の大学では当然のことなのかもしれませんが、新宗教系でここまで膨大な資料を有している教団は国内にはないとおもいます。

 大学もありますし、天理教の専門学校みたいなところもありますので、そちらの先生が論文を書いたり、いろいろとしています。

 そういうことを考えてると研究の対象としては良いかもしれませんが、あまりうまみのある研究とはいえないかもしれませんね。

2010/05/23

井上頼圀

井上頼圀(いのうえよりくに)
こちらも新宗教研究をしていたらぶつかった研究者でしたので、ネットで調べたものを記載します。
それにしても明治から昭和初期までにかけての研究者というのは業績が半端無い人が多いです。

〔生没年〕 天保10年(1839)2月18日~大正3年(1914)7月4日 〔享年〕76

〔生国・住国〕 江戸 : 東京都
〔学統〕 相川景見・平田篤胤(没後門)・権田直助


 国学者。江戸神田松下町の医者井上頼正の子として生まれる。慶応3年12月、すでに京都の勤王志士と交流のあった権田直助の後を追って京に上り、国事に奔走。維新後は皇漢医道御用掛・権少教正・宮内省御用掛・御系譜課勤務・國學院講師、学習院教授、宮内省図書寮編集官などを歴任する。

 明治38年、文学博士となる。
 幼少より学問を好み、安政3年5月、相川景見に歌を学び、また儒学・医学など諸学・諸芸に通じた。文久元年11月8日、平田銕胤の門人となり、本来門外不出である『古史伝』の拝借を許されるほど信頼を受ける。また元治元年には、同門の権田直助に皇朝医学を学んだ。明治15年、松野勇雄ら同志を糾合して、皇典講究所を設立。その講師となって教育・運営に尽力した。

 学者としては国史諸本の校訂、神社史考証を行なうほか、子弟らとともに貴重本の書写を行ない、その保管に努めた。その蔵書は現在、無窮会専門図書館神習文庫として遺存している。浩瀚な著述はないが、一度校訂されたものは学会の権威となった。また、平田篤胤の主著『古史伝』の未定稿部分を、平田銕胤・矢野玄道と協力して完成させるととともに、篤胤・直助ら先師の業績を刊行するなど、その顕彰に努めた。

天保10(1839)江戸神田松下町の医者井上頼正の子として生まれる。
安政3(1856)相川景見に歌学を学ぶ。
文久元(1861)平田銕胤の門人となる。
文久元(1861)【成立】易学こころおぼえ《えきがくこころおぼえ》
文久3(1863)【成立】新学異見序文斥兆《にいまなびいけんじょぶんせきちょう》
元治元(1864)権田直助に皇朝医学を学ぶ。
慶応元(1865)【成立】抄書《しょうしょ》
慶応3(1867)上京し、国事に奔走。
明治2(1869)7月、大学中助教、10月、皇漢医道御用掛。
明治5(1872)7月、教部省十二等出仕、8月、教部権中録、11月、教部省判任官。
明治6(1873)3月、教導職権大講義兼補、教部権大録。
明治6(1873)【成立】都々古別神社考証《つつこわけじんじゃこうしょう》
明治7(1874)5月、教部省九等出仕。
明治8(1875)11月、大神神社少宮司。
明治10(1877)10月、宮内省御系譜掛。
明治10(1877)【成立】越洲考《えっしゅうこう》
明治13(1880)田中頼庸・飯田武郷らとともに『古事記』を校訂。
明治15(1882)松野勇雄ら同志を糾合して、皇典講究所を設立。
同文学部教授。
明治16(1883)8月、宮内省図書寮准奏任御用掛。
明治19(1886)2月、宮内省図書属。
明治22(1889)11月、國學院講師。
明治23(1890)【成立】長慶天皇御即位論《ちょうけいてんのうごそくいろん》
明治27(1894)3月、宮内省御系譜課長。
明治33(1900)9月、兼任華族女学校教授。
明治34(1901)6月、日本女子大学文科教授。
明治38(1905)【成立】後宮制度沿革考《こうきゅうせいどえんかくこう》
明治41(1908)1月、宮内省図書寮編修官、学習院教授。
5月、図書寮編修課長。
明治41(1908)【刊行】古事記考《こじきこう》

明治(明治)【成立】詞の経緯の図《ことばのたてぬきのず》
大正元(1912)宮内省より六国史校訂材料取調主任を命ぜられる。

転載元は國學院大學のデータベースです。

2010/05/11

中西牛郎

新宗教研究をしていると中西牛郎(うしお)なる人物にぶつかったので、ネットから引っ張ってきたのを書きます。

1859‐1930
明治-昭和時代前期の著名な宗教思想家
安政6年1月18日生まれ。
同志社にまなび,明治14年神水(くわみず)義塾をひらく。
米国に留学後,本願寺文学寮教頭となる。「新仏教論」で仏教改革を説き、雑誌「経世博義」を刊行し国粋主義を主張。
天理教と神道扶桑教の教典をまとめた。
昭和5年10月18日死去。72歳。肥後(熊本県)出身。号は蘇山。
著作はほかに「宗教革命論」など。

というのがありました。
文献などは探していませんが、それなりに有名な研究者だったようです。
この時代は学者という表現の方があってるのかもしれませんね。

2010/05/06

天理大学

 新宗教の中でも天理教に関する研究をしようと思うと避けて通れないのが、天理大学。
 天理大学にはおやさと研究所なるものが存在し、研究活動をしているみたいです。
 実際は建物も一緒で、メンバーも兼任という感じですが、地道に書籍の販売や研究会を行い、日本国内、世界の研究者を呼んで研究会をしています。(先月は東京大学の島薗先生が研究会にいたらしい)

 特におやさと研究所が出版している「天理教事典」はなかなかの量と内容だと思い、これを書きました。
 事典と名前がつくぐらいですから、それなりのもんだということはすぐに分かりますけど、天理教以外の周辺の出来事を民俗学や生物学などなどからきちんと記載している印象を受けています。(熟読はしてはいないですけど…)

 どの宗教系大学でもしてることかもしれませんし、宗教系大学は研究所、もしくはそれと同じような研究機関を持っています。新宗教は少ないですが、キリスト教系、仏教系などなど数えたら一日じゃ終わらないぐらいの量かと。

 天理大学は最近学部編成で体育学部の人員を増やし、宗教学科など人が集まりにくい学科は減らしたそうです。世間的に見れば、奈良県の田舎にある大学。または宗教系大学と見られているでしょうから、人は集まりそうにはないですね。

 

2010/04/23

天理教教祖誕生祭

関西に行く用事があったので、天理市に行ってきました。
何も知らずに行くと黒山の人だかり??
おびただしい数の人がいました。
教祖誕生祭と婦人会100周年という行事があって、電車も満員、道路も渋滞…

そんな感じです。


黒い法被と呼ばれるものを着ている人が多かったです。
出店も出てて、お祭りみたいな感じもありましたね。



老舗新宗教なんて記事を読んだこともありますけど、基本的には拝観料も無いみたいですし、自由に参拝するところにも入れました。

2010/04/22

石上神宮

今回は新宗教でありませんが、新宗教とゆかりが若干あるということで…
石上神宮に行ってきました。『日本書紀』に記された神宮は、伊勢神宮と石上神宮だけであり、日本最古設立の神宮と言える。
ようはすごい歴史のある神宮ということになります。


桜のきれいな時期だったので、花見もしてきました。近くに山辺の道もあるので、参拝者、旅行者などなど多くの人がいました。

祭神 布都御魂(ふつのみたま)神 布留御魂(ふるみたま)神 布都斯御魂(ふつしみたま)神配祀 宇摩志麻治(うましまじ)命 五十瓊敷(いにしき)命 白河天皇 市川臣 主祭神の布都御魂神は、また佐土(さじ)布都神ともいい、神代に武甕雷神がおびていた霊剣で、平国之剣(くにむけのたち)ともいわれる。「記紀」によれば、神武天皇御東征の時に天降られ、邪神を破り、国々を平定された威徳により、物部氏の遠祖、宇摩志麻治命をして、宮中に奉斎された。
 のち崇神天皇七年、物部の伊香色雄命が大臣の職にあった時、詔により天社(あまつやしろ)、国社(くにつやしろ)を定めて八百万神を祀らしめられて、布都御魂神と共に石上の高庭の地に祀られ、石上大神と称えたのが、石上神宮の創めである。

 物部氏が累代奉仕の任務につき、素盞鳴尊が八岐大蛇を退治された天羽斬剣(あめのはばきりのつるぎ)も祀られ、我が国の霊剣は草薙剣(くさなぎのつるぎ)を除き当宮に祀られることになった。ついで五十瓊敷命が剣一千口を作り神庫(ほくら)に納め、さらに丹波国桑田村の人甕襲(みかそ)が八尺瓊(やさかにの)勾玉を献じ(「日本書記」垂仁天皇87年の条)「釈日本紀」に引く天書には、天日槍(あめのひぼこ)の所来の神宝も納められ「神宮」の称号と共に古代史上独歩の地位をしめていた。下って平安時代末期にいたり、白河天皇の尊信あつく、永保元年(1081)鎮魂祭のために、宮中三殿の一つ、神嘉殿を拝殿に寄進され、神門を改めて、今日の機構に築造され、寛治6年(1092)上皇として親しく神宮に参詣された。
 本社の称号は石上神宮・石上振神宮・石上布都御魂神社・石上布都大神・石上神社などと称され、また岩上大明神・布留大明神ともいわれ、略して布留社・石上社とも呼ばれた。
 延喜式神明帳には、石上坐布都魂神社と見え、早くから官幣に預ったが、明治4年に改めて官幣大社に列し、同16年に、神宮号の復称が許された。
 例祭並びに渡御祭は10月15日で、神剣渡御祭(でんでん祭)6月30日、榜示浚・鎮魂祭・玉の緒祭などの神事が古来から行なわれている。


石上神宮拝殿(国宝)棟札六枚付

 永保元年(1081)白河天皇が鎮魂祭のために宮中の神嘉殿を移建せられたものと伝えられ、その構造は壮重雄健で全国に現存する拝殿では最古のものである。文明2年(1470)貞享元年(1684)享保18年(1733)元文5年(1740)寛政10年(1798)安政6年(1859)の修復、上葺等による棟札六枚と共に国宝に指定されている。

石上神宮摂社出雲建雄神社拝殿(国宝)

 この拝殿は、もと内山永久寺の鎮守住吉社の拝殿を大正3年7月に移建したもので、保延3年(1137)の建立といわれている。形式は割拝殿で中央に一間の通路があり、通路の両方の上には唐破風(からはふう)がつけられている。周囲の左右両側が板戸の両開きで前後両面は素木の格子戸になっている。この拝殿は、度々の改造を経て、現在の形となったといわれている。この変遷は、梁上の蟇股(かえるまた)に表れ、南北両側にあるものは、創建当時の様式である。建物全体は、軽快素朴、優美な感銘を与え現在の割拝殿中もっとも優れ、数少ない永久寺の建物の一つとして貴重な遺構である。



石上神宮楼門(重要文化財)

 楼門の棟木に「文保二年(1318)卯月二十九日、右奉二為 聖朝安穏 天長地久 社頭繁昌 興隆仏法 郷内泰平 諸人快楽一 所レ造如レ件」の墨書銘があり、鎌倉時代末期、後醍醐天皇が即位された頃の建立である。建築は、桁(けた)行二間二尺、梁(はり)間一間五尺、重層、入母屋造、檜皮葺(ひわだぶき)で上層は和様三手先、下層は二手先に組み、斗供間の蟇股と柱頭の天竺様の鼻の繰形に優れたものがある。柱は円柱で、全体の恰好も美しい。この楼門を一名鐘楼門とも称え、縁起書に(「楼門に洪鐘一口を懸、四天王像を鋳あらわせり、楼門前に鶏栖(けいせい)あり、岩上大明神の五大字を題す」)と記し、氏子有事の際、この鐘をついてしらしたようである。
天理市ホームページから抜粋

2010/03/17

天照皇大神宮教(てんしょうこうたいじんぐうきょう)

新宗教を研究(主に天理教関係)をしていて天照皇大神宮教(踊る宗教)というものにぶち当たったので、いろいろと調べてみました。
今までは近代の新宗教というと天理教、大本教、金光教などが有名どころだと勝手に思ってたんですけど、この教団も有名ということを知りました。

何が有名かといいますと道の辻で踊るから有名になったみたいです。
wikipediaには「教団の教えによれば、宇宙絶対神は二千年に一度だけ地球に降臨するとされ、一度目は仏教の釈迦、二度目はキリスト教のキリスト、三度目が北村であるという。 教団では我欲をすてて無我の域に達することが出来れば、人と神が合一すると説き、無我の舞を踊るのが特徴である。そのため第二次世界大戦後には「踊る宗教」や「踊る神様」と喧伝された。」とありました。

仏陀とキリストの生誕の年代って543年ぐらいしか差がないので、2000年に一度というのはどうなのかな?という気もします。

しかし教団は今でも存在しますし、google earthで見ても大きな建物がありました。

山口県にあることも知りませんでした…

また他に分かったら書いていきます…

2010/02/10

Joyous Life

 天理教では、「陽気ぐらし」というキーワードがあるようです。

 その訳語が“Joyous Life”だからどうってこともありませんが、そんな言い方すんのか。ぐらいなかんじです。

2010/01/09

作ってみました。

 作ってみました。何となくなんですけど、自分の興味があることなんで少しずつ書いていきます。