天理高校野球部 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ 8月 20, 2012 今日甲子園を見ると天理高校が出てました。 そして勝利。 今年はあまり評価が高くないようですが、ベスト8まで来ました。 詳しいことはよくわからないのですが、とりあえず勝ってるなら良いと思います。 次はいつかもしれません。 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ
中山みき・その生涯と思想 1月 27, 2013 天理教の教祖「中山みき」をテーマにした著作である。内容は、中山みきをめぐる教団内部と外部の研究者による論文および鼎談から構成されている。 これまでは天理教の教祖を扱った著作や論文は数多くあり、教団の内と外どちらかの立場からも様々な議論がされていた。本書は、その教団の内と外双方の立場か らの論文が一冊にまとめられている。 池田士郎・島薗進・関一敏という有名な宗教研究者によって書かれた著作ですので、大変興味深い… 続きを読む
天理教と雅楽 其の五 10月 17, 2011 その後、各地方に点在する部内教会でも大和舞を行うようになり、その普及のため講習会が開催され、これを契機に教団内で雅楽への関心が高まっていった。 この頃からおつとめ(1)の復元とともに「神の御国」は昭和8年春、廃止となる。祭儀との関係により取り入れられた天理教の雅楽も、月次祭の奉仕としての雅楽は当然であるが、音楽としての雅楽にも関心が高まり、大正10年頃にできた河原町大教会の雅韻会のように各教会ごとに愛好者が雅楽会を組織するようにもなり、講習会、演奏会が各地で開かれるようになる。 教会本部でも、大正12年2月には、第一回の雅楽講習会を開催しており、その最終日にあたる2月11日には、第一回雅楽演奏会を参拝場(?)神殿(?)_(現在の会議所)を会場に開催している。これは、昭和5年頃まで、毎年、開催されている。 (1)三原典の一つであるみかぐらうたを行うこと。 続きを読む
井上頼圀 5月 23, 2010 井上頼圀(いのうえよりくに) こちらも新宗教研究をしていたらぶつかった研究者でしたので、ネットで調べたものを記載します。 それにしても明治から昭和初期までにかけての研究者というのは業績が半端無い人が多いです。 〔生没年〕 天保10年(1839)2月18日~大正3年(1914)7月4日 〔享年〕76 〔生国・住国〕 江戸 : 東京都 〔学統〕 相川景見・平田篤胤(没後門)・権田直助 国学者。江戸神田松下町の医者井上頼正の子として生まれる。慶応3年12月、すでに京都の勤王志士と交流のあった権田直助の後を追って京に上り、国事に奔走。維新後は皇漢医道御用掛・権少教正・宮内省御用掛・御系譜課勤務・國學院講師、学習院教授、宮内省図書寮編集官などを歴任する。 明治38年、文学博士となる。 幼少より学問を好み、安政3年5月、相川景見に歌を学び、また儒学・医学など諸学・諸芸に通じた。文久元年11月8日、平田銕胤の門人となり、本来門外不出である『古史伝』の拝借を許されるほど信頼を受ける。また元治元年には、同門の権田直助に皇朝医学を学んだ。明治15年、松野勇雄ら同志を糾合して、皇典講究所を設立。その講師となって教育・運営に尽力した。 学者としては国史諸本の校訂、神社史考証を行なうほか、子弟らとともに貴重本の書写を行ない、その保管に努めた。その蔵書は現在、無窮会専門図書館神習文庫として遺存している。浩瀚な著述はないが、一度校訂されたものは学会の権威となった。また、平田篤胤の主著『古史伝』の未定稿部分を、平田銕胤・矢野玄道と協力して完成させるととともに、篤胤・直助ら先師の業績を刊行するなど、その顕彰に努めた。 天保10(1839)江戸神田松下町の医者井上頼正の子として生まれる。 安政3(1856)相川景見に歌学を学ぶ。 文久元(1861)平田銕胤の門人となる。 文久元(1861)【成立】易学こころおぼえ《えきがくこころおぼえ》 文久3(1863)【成立】新学異見序文斥兆《にいまなびいけんじょぶんせきちょう》 元治元(1864)権田直助に皇朝医学を学ぶ。 慶応元(1865)【成立】抄書《しょうしょ》 慶応3(1867)上京し、国事に奔走。 明治2(1869)7月、大学中助教、10月、皇漢医道御用掛。 明治5(1872)7月、教部省十二等出仕、8月、教部権中録、11月、教部省判任官。 明... 続きを読む